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いかがなものか(追記あり) [ひとりごと]

先日、赤坂見附から赤坂サカスに行く途中、
一ツ木通りで妙なものを見かけました。


街路灯です。

金属の白い柱を、本物のクヌギの原木で覆ってあるんですが。
左の写真でおわかりのように、皮がはがれてボロボロ。悲惨な状況です[バッド(下向き矢印)]
これじゃあ木の温もりを感じるどころか、逆に風邪引いちゃいそう。
しかもこの木、どの街路灯を見ても右の写真のように寸詰まりなんですよね~。


この四角い箱が原因のようですけど。
何か目隠しをする工夫はできなかったんでしょうか?(-"-;)
見れば見るほど、奇っ怪なシロモノでございました。



初めて入った地元の喫茶店で、「桜カプチーノ」というのを注文しました。
出てきたのが、これ。


和の器に入ったカプチーノに甘納豆が添えられていて、
見た目なかなかおしゃれです。

で、味というのが・・・。

缶コーヒーみたい [あせあせ(飛び散る汗)]

桜の花の塩漬けが浮かんでいるので、ほんのりしょっぱい。
そこまでは想定内でした。
が、それを中和しようと考えたのか、最初からカプチーノに砂糖が入ってる。
この味が、どういうわけか缶コーヒーそっくりなんです・・・(T-T)



お気に入りの長崎料理店で、夕食を食べたときのことです。
お刺身の皿を下げに来た店員さんが、皿に残っていた葉っぱを見て、
「これも召し上がってみてください」



見た目が雑草っぽいので(失礼)、ただの飾りかと思っていたら、
佐賀県直送のめずらしい野菜だそうで。
食べてみると、水滴のように光っているところがプチプチしていて、
ほんのり塩気があります。
でも塩ゆでしたわけじゃなくて、生の野菜自身に塩気があるんだそうです。
不思議ー!
塩好きなわたしには、なかなか美味でございましたv

さて、この野菜の名前ですけど。
プッチーナ」っていうんですよ o( ̄ー ̄;)ゞ アララ~

フランス語の「プチ」と野菜の「菜(な)」を足したんだそうですが。
ダジャレ系のネーミングはどうも苦手なのであります・・・[たらーっ(汗)]

◆◆◆◆

[追記]
「JAさが」のホームページ(http://jasaga.or.jp/nousanbutsu/yasai/puttina/)に、
プッチーナの説明が出ていました。
なんと、多肉植物だそうです。
ということは、サボテンやアロエの仲間なんですねー。ふむふむ。

以下、サイトからの引用です。
 サボテンのような多肉多汁組織を持つ南アフリカ原産の多肉植物で、地中のミネラルを吸い上げる力がある吸塩植物。葉や茎の表面にキラキラとした水滴のような粒々が付いているので、野菜の俗称としてはアイスプラントと呼ばれています。粒々は水滴ではなくミネラル分を多く含むブラッター細胞と呼ばれる葉の一部です。
 茹でても炒めても揚げても残る塩味やプチプチと新感覚な食感は、様々な料理にアレンジしていただけますが、野菜自身が持つ本来の、ほんのり塩味やシャキシャキ、プチプチとした食感を楽しむには、サラダで食べるのがおすすめです。
 害虫や病気にも強い野菜で、水耕で農薬を一切使用せず栽培しているから、安全にも折り紙つきです。プロのシェフや料理人らが求める素材の「希少性」と、消費者らが求める「食の安全性」に大きく応えます。
 今後は、さらにおいしいプッチーナに育てようと「甘さ」や「すっぱさ」を加える研究も進めています。

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上野の山から借景が消える日 [ひとりごと]

1月某日、朝日新聞朝刊に出ていた全面広告。

19階建ての高級分譲マンションが、上野・不忍池のすぐそばに建つという。

うーん、なんだかなあ。

これはまあ、「マンション購入予定者」というユーザーの視点が自分にまったく欠けているからで、マンション探し中の人が見れば、「うわー、住んでみたい♪」という好印象を抱くんでしょうけれども。

広告によると、予定販売価格7,000万円台~2億8,000万円台、予定最多価格帯8,000万円台。全211邸(戸じゃなくて邸なんですね)、合計3棟のタワー&レジデンスが上野の森に誕生するという。
なんと坪単価500万円。これはもう、はっはっはーと笑うしかない。

高層階からの眺望はさぞ美しいことでしょう。目の前に不忍池と上野公園、ちょっと離れて根津神社に湯島天神。数多くの美術館・博物館、旧奏楽堂。カメラ片手にぶらぶらと散歩してみたくなる景観が、そこかしこにある。

でも、上野の森を美しいと思う感性の人は、こういう建物を許せないはずである。たしかに最近は不忍池周辺に目障りな(失礼)建物が増えてはいるけれど、いくらなんでも19階は高すぎる。

ネットで検索してみると、《文京区の建設委員会会議録》というのが見つかった。
「なぜああいう高層を許すのか」と質問する委員に対して、「現行法規をクリアしているから、区としてはどうすることもできない」と区の担当者。文京区にはいろいろと建築紛争が起きていて、区の側も対応にずいぶん苦慮しているようだ。

問題の原因は、東京都が独自に定めた「総合設計制度」。
本来の目的は景観保全だったのが、たびたびの規制緩和でいつの間にか、建物の高層化を誘導する制度に変わってしまっているという。
大ざっぱに言うと、建物の周りに広い空地さえ確保できれば、容積率を基準よりも大きく割増ししてもらうことができる。高さ制限もゆるゆる。
19階建てのマンションも、総合設計制度の恩恵で高さのオマケを付け足したものだとすれば、法的には何の問題もない。法的には。

こうした難問の解決は、個別の名所旧跡を保護するだけでなく、「借景」を守るという発想がないとなかなかむずかしい。
かつて上野の山を比叡山に、不忍池を琵琶湖に見立てた江戸の想像力は、風前の灯である。

 

乱歩「東京地図」

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  • 作者: 冨田 均
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  • 発売日: 1997/06
  • メディア: 単行本
東京―世界の都市の物語

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  • 作者: 陣内 秀信
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1999/05
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東京の「地霊(ゲニウス・ロキ)」

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  • 作者: 鈴木 博之
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1998/03
  • メディア: 文庫

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ブログと人格 [ひとりごと]

更新がちょっとご無沙汰になってしまいました。
書きたいネタがないわけではないんですが、記事編集画面を開いても、ぼんやり別のことを考えてしまいます。

 
ブログでおつきあいいただいている柴壱さんの大切なご友人、柴犬弐号さん(=柴弐さん)が10月27日に亡くなられたことを、つい先日知りました。
柴弐さんは今年の夏、うちのブログにも何度かコメントを書き込んでくださっています。とても物知りで、謙虚で、気さくな方という印象でしたが、映画『太陽』の記事に最後のコメントをいただいてから1週間も経たないうちに、緊急入院されたとのことでした。いまからたった2か月前のことです。
突然の訃報を読んだときは、頭の中が真っ白になりました。

考えてみれば不思議なことです。わたしは柴弐さんにお会いしたこともなく、本当のお名前すら知りません。なのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。コメントを何度も読み返してしまうんだろう。

 

よく、「ブログの匿名性」ということが言われます。
わたしも含めて、多くのブロガーさんは本名を明かさずに記事を書いています。程度の差はあるものの、公開する個人情報も限定的。ネット上では匿名であるほうが安全だからです。
だけど文章というのは恐ろしいもので、書き手の人格がどうしてもにじみ出てしまう。
「ネットの人格と実生活の人格は別」という人もいますけど、そういう「ネットの人格」は架空のものというより、その人の内面の一部分が突出したものという気がするんですよね。

また、わたしはいわゆる掲示板に書き込みをした経験はほとんどないんですが、親しくしていただいている(と一方的に思い込んでいる?)ブロガーさんのコメント欄には、よく書き込みをします。
そこでのやりとりにも、つい人間性が出てしまうことが。これはまぁ、確信犯的に出していることも多くて、匿名だけど一個の人格を持った人間として認識してほしい、という気持ちがどこかにあるのだと思います。

何が言いたいんだか自分でもわからなくなってきましたけど、要するに匿名のブログもコメントも、固定したハンドルネームで書かれるかぎり、ひとつの人格を持たざるを得ないということです。だからこそ、顔も名前も知らないことが、少しもコミュニケーションの妨げになっていない。これはブログという「場」の持つ引力なんでしょうか。その辺はまだよくわからないのですが。

いずれにしても、ブログを通じて知り合った方々との縁を、これからも大切にしていきたいと改めて思ったのでした。いただいたコメントを宝物に。

++++


最後になりましたが、柴弐さんのご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈りいたします。


手紙を書いていますか? [ひとりごと]

前回》、映画『明日の記憶』のことを書きましたが、その日買ったパンフレットの最後には、「家庭でできる認知症を疑うチェック」というのが載っていました。
「認知症を知るホームページwww.e-65.net」が公開しているチェックリストから抜粋したもので、その11番目に書かれていたのが、「手紙を書いていますか」。

だからというわけではないんですが、昨日はすごくひさしぶりに手紙を書きました。
あ、でもメールじゃないんですよ。便箋にペンで書く、超アナログ(?)な手紙のことです。

1週間ほど前にもらった叔母からの手紙への返事なんですけど、書き上げるのにほぼ半日かかってしまいました・・・。
手は痛くなるし、肩は張るし。ふだん縦書きの文章などまったく書く機会がないものだから、字の大きさも字間もバランスむちゃくちゃ。情けなさを通り越して笑ってしまいました。はははー。

手紙をくれた叔母というのは、今年もう89歳。いまは介護付き有料老人ホームに住んでいます。
数年前に夫を亡くし、一人娘(わたしから見ればイトコ)が転勤でニューヨークに行ってしまったため、独り暮らしは危ないと、入居を決めました。
頭はしっかりしているほうなんですが、それでもリフォーム詐欺まがいの悪徳業者に何度もだまされ、不要な床下乾燥機や庭木の手入れのために何十万円払わされたことか。
ただ、話し相手のいない叔母にとっては、うわべだけでも親身になって話を聞いてくれる業者の人間を、つい信じたくなるのは無理もないことでした。

「まだ独りでやっていける」という気持ちも本人にはあったものの、いざホームに入居となれば、なじみのない場所で新しい人間関係を一から創りあげることは、体にも心にも計り知れない負担をかけるはずです。
いまならまだ、新しい環境に耐えるだけのエネルギーが残っている。
最後は本人もそう納得して、市内に新しくできたばかりの老人ホームに入居する決心をしたのです。

この前のゴールデンウィークを利用して、叔母に会いに行ってきました。
若いころは気位が高く、長男の嫁であるうちの母にずいぶんきつく当たる人でしたが、いまではすっかり柔和な性格になり、わたしたちの訪問を心からよろこんでいる様子。
それから数日後、便箋4枚にわたる長い手紙が叔母から届いたのです。
内容はというと、先に亡くなったきょうだいから父母、祖父母、曽祖父母にもおよぶ家族の来歴、人となりを書きつづったもの。べつに衝撃の事実とか秘密の暴露とかはないんですが(そりゃそうですねー)、その記憶力には驚くばかりです。
自分が知っていることを、生きているうちにすべて伝えておきたい。そんな切実な想いを行間からひしひしと感じました。

ところが、返事を書くこちらのほうは、手紙らしい言いまわしをひねり出すのにひと苦労。
まずパソコンで下書きをつくって何度も直しを入れ、プリントアウトして、それを見ながら手書きで便箋に清書するという、なんともまわりくどい手順です(苦笑)。
書き損じたら修正液で消すわけにもいきませんから、一字一字ものすごく神経を使って、もう精根尽き果ててしまいました。

考えたら、仕事でもプライベートでもメールに頼っていて、他人様に下手ヘタな字をさらすのも、年に1度の年賀状ぐらいなんですよね。つくづく反省しました。
最近はなはだ物覚えが悪くなっているのは、きちんと手紙を書くという行為をサボっているツケが回ってきたということなんでしょう・・・。


みなさんは、手紙を書いていますか?

 


付記

冒頭でふれた「家庭でできる認知症を疑うチェック」、以下にご紹介しておきます。

  • 曜日や月がわかりますか
  • 前と同じように道がわかりますか
  • 住所・電話番号を覚えていますか
  • 物がいつもしまわれている場所を覚えていますか
  • 物がいつもの場所にないとき、見つけることができますか
  • 電気製品(洗濯機やテレビのリモコンなど)を使いこなすことができますか
  • 自分で状況にあった着衣ができますか
  • 買い物でお金を払うことができますか
  • 身体の具合が悪くなったわけではないのに、行動が不活発になりましたか
  • 本の内容やテレビの筋がわかりますか
  • 手紙を書いていますか
  • 数日前の会話を自分から思い出しますか
  • 数日前の会話の内容を思い出させようとしても難しいですか

詳細は、こちら。→ http://www.e-65.net/

 


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「いただけます」問題 [ひとりごと]

4月23日付朝日新聞の「ことば談話室」から。

 本紙では朝刊発行を休む際、前日の1面にお知らせを載せる。その中の「テレビ朝日系列のANNニュース……でも朝日新聞ニュースをご覧いただけます」という文の末尾を、今月「ご覧になれます」に変えた。
 「ご覧いただける」だと「見てもらえる」という意味になるが、この文で伝えたいのは「読者が(ニュースを)見ることができる」ということなので、「ご覧になれる」の方が自然だと考えた。
 しかし店頭や広告では、「ご利用いただけます」「ご安心いただけます」などがごく普通に使われている。

仕事で送付状や依頼状や御礼状などを書くとき、いつも敬語表現には頭を悩ませているので、こういう記事はかなり気になる。
自分としては「美しい敬語」とはいかないまでも、せめて正しい敬語が使えるように、

敬語表現

敬語表現

  • 作者: 蒲谷 宏, 坂本 恵, 川口 義一
  • 出版社/メーカー: 大修館書店
  • 発売日: 1998/10
  • メディア: 単行本

↑こんな本とか、

きれいな敬語 羞かしい敬語―美しい言葉の人になる7章

きれいな敬語 羞かしい敬語―美しい言葉の人になる7章

  • 作者: 草柳 大蔵
  • 出版社/メーカー: グラフ社
  • 発売日: 2001/11
  • メディア: 単行本

↑こんな本も買ってみたりしたんだけど、なかなかビシッと使いこなすところまではいかないんですよねー。


で、ふだんよく引っかかるのが「いただく」の使い方。
たとえば御礼状で、

A)○○していただき、ありがとうございます。
B)○○してくださり、ありがとうございます。

という2つの言い方がある。このAから敬語をはずすと、

○○してもらって、ありがとう。

になる。なんか変じゃないですか?
それよりは、

○○してくれて、ありがとう。

ですよね。

これを敬語表現に変えたのがBだから、Bが正しいんじゃないかと思うんだけれど、どうも世間ではAのように「いただく」を使った表現が圧倒的優勢なんである。
たとえば「××をご利用いただき、誠にありがとうございます」とか、「お客さまのご都合に合わせてご返済いただけます」とか(ヘンな文例ですみません)。
意味的には「××をご利用くださり……」、「……ご返済になれます」なんだけどなあ。ちょっと気にしすぎ?


冒頭の記事では日本語史の小池清治教授(宇都宮大)の話として、

「日本語には、相手の行為であっても『自分がしてもらう』と表現する方が丁寧だという意識がある……高度経済成長期に広まった、一種の『商業敬語』ではないか。若い世代は変に思わないだろうが、古い世代には違和感がある」

と分析。

ふ、古い世代ですか・・・。そんなひと言で片づけられるとは。


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中央線の車内放送で [ひとりごと]

今日の朝、中央線快速の下りに乗っていて市ヶ谷にさしかかるころ、
車掌さんのアナウンスが聞こえてきた。

「今朝は大変冷え込んでおり、右手に見えますお堀にも、まだ氷が張っております」

あれれ、なんだか観光案内みたい。周りの乗客も「ん?」という顔をしている。
窓の外に目をやると、たしかにお堀の水面がところどころ凍っているのが見えた。
ちょっとびっくり。

少し間をおいて、

「ホームにも一部滑りやすいところがございます。
 お降りの際は、足元に充分お気をつけください」

なるほど、足元注意のアナウンスだったのか。

それにしても、ほんの少し冬の情景を織り込んだだけなのに、
いつもは聞き流してしまうお決まりのアナウンスが、今日はやけに印象に残った。
こういうのを「クリエイティブ」と呼ぶのかもしれないな、と思う。

クリエイティブというと広告やアートの世界の専売特許みたいな感じがするけれど、
どんなに地味で地道な仕事にも、創造性や独創性というものはある。
自分なりの創意工夫で職場全体の仕事の能率が上がったり、
今日の車掌さんのように乗客の注意を促す効果が上がったりするのなら、
きっとそれがクリエイティブということなのだ。


粋なアナウンスを聞いた中央線。人身事故が多すぎるのが玉にキズ?


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N先生からの手紙 [ひとりごと]

もう10年以上前になるだろうか。
大きな仕事がひと区切りしたのを機に、勤め先を辞めた。
とりあえず週2、3日はアルバイト。そのかたわら、カルチャーセンターに毛の生えたような小さな学校に通いはじめた。

N先生は、その時に講義を受けた先生のひとり。
毎回みっちり予習をして授業に臨むのだけれど、提出物の出来が悪いとみんなの前でこっぴどく酷評されるので、毎回生きた心地がしなかった。針のむしろというか、ヘビににらまれたカエルというか。 たとえがむちゃくちゃな気もしますが。

胃がきりきりするほど張りつめた授業が終わると、たいてい生徒たちは近くの喫茶店に流れた。
N先生も一緒だ。
授業中の鬼みたいな顔(私にはそう見えた!)とはうって変わって、ニコニコしながら生徒たちの他愛のない話に加わったり、好きな本や映画やマンガの話に花を咲かせたり。
そうこうするうちに、1冊のノートが回ってくる。
先生へのメッセージを、全員がそこに書くためだ。
言ってみれば、卒業式に回すサイン帳みたいなもの。今日が最後の授業というならまだしも、何の脈略もなく唐突にノートは回ってくる。それもかなりの頻度で。
だから内容というのも、何の映画がおもしろかったとか、あの店のケーキがおいしいとか。
そういう生徒たちの雑談そのままのメッセージを、先生は大事そうに持って帰るのだった。

数年間で一定の成績をクリアすると、学校から修了証が送られてきた。
先生はいつでも聴講においでと言ってくれたけど(授業料なしで)、やがて会社勤めに復帰したこともあって、学校にはぱったりと行かなくなってしまった。
先生はその後定年を迎え、教壇を去った。

あのころN先生にいじめられたこと・・・いや鍛えられたことは、いまもいろんな形で役立っていると思うので、感謝の気持ちを込めて、年賀状は欠かさずに出している。
一方、先生は年賀状というものを一切書かない主義。
ただし何年かに一度、急に思い出したように封書で返事が届く。今年がその年だった。

私が年賀状に書いたのは、余裕のない日常についての愚痴めいたこと。
N先生の返信には、
「少し外に出て遊びなさい。テーマなんて、ごろごろころがっているのだから」
と書いてあった。
そして最後にひと言、
「とにかく、きみに期待しているよ」

思い出した。何年か前にもこうして元気づけてくれたことを。
公私ともにしんどかった時期、年賀状に書く近況報告にもマイナスなオーラが漂っていたのかもしれない。
そういう年にだけ、先生は返事をくれるのだった。
「期待しているよ」と、くすぐったいひと言を添えて。


N先生に敬意を表して。先生のお気に入り、『めぞん一刻』と『タッチ』。

 めぞん一刻 (1) タッチ (1)

 

 

 

 

響子さんと南ちゃんが好みのタイプなんだそうだ。
共通項がよくわからないんだけど。


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35年前の傷あと [ひとりごと]

高校の同窓会誌が届いていた。

卒業以来、1度も同窓会費を払ったことがないのだけれど(ごめんなさーい)、せっかく送ってくれるものなので、毎回卒業生や当時の先生の消息などをぱらぱらとめくって見たりする。

今回は、母校の新聞部が発行する学生新聞の縮刷版が掲載されていた。
記事によると、35年ぶりに合唱コンクールが復活したという。
それだけなら「ふーん」と流すところだったが、35年前に廃止された理由が「高校紛争」だというので、驚いてしまった。

1969~70年、全国を吹き荒れた学生運動の嵐。政治や社会への批判や改革を叫びながら、学生と機動隊が衝突した東京大学をはじめ、各地の大学でバリケード封鎖などが盛んに行なわれた。
その運動が高校にも飛び火して、制服や授業のあり方について教員を糾弾するなど、学生と学校が紛争状態になるところもあったという。

その激流の中に母校もあったというのは初耳だった。女子高はそういう「闘争」とは無縁だと思い込んでいたので。
まず自治会活動が麻痺状態となったため、部活動が停止し、続いて合唱コンクールを含む文化祭も廃止された。
生徒総会では先生方を一人ひとり壇上に呼び出して、制服や授業の意義を厳しく問いただすこともあったという。いわば「つるし上げ」だろう。
その後文化祭の行事は徐々に復活したものの、合唱コンクールだけは35年間、廃止されたままだったらしい。

わたしが入学したころにはすでに紛争の名残はカケラもなく、先生から「ぬるま湯」と笑われるほど平和でのびのびした校風になっていた。
ただ、制服や校則は自治会で生徒自身が決めることになっていて、先生は事後報告を受けるだけ。校則ガチガチの中学校から来たわたしは、「高校生ってオトナだな~」と感心するばかりの能天気学生だった。

しかしこの「自主独立」的な校風のおおもとに、自治をめぐる先生と生徒、あるいは生徒同士のドロドロした闘いがあったとは。
月の裏側を見てしまったような、少し複雑な気分ではある。


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また本屋が閉店してしまいました [ひとりごと]

会社の近くの本屋に、いつの間にか「閉店のお知らせ」が出ていました。

かつては歩いていける範囲に4、5軒の本屋があったんですけど、駅ビルの本屋が撤退して、ここもなくなって、いま残っているのは品揃えのすごく偏った、使えな~い本屋が1軒だけ。

お昼を食べに行った帰りにぶらっと寄るのが楽しみだったのになー。丸善みたいにあらかじめ糊付けしてあるブックカバーではなく、きちんと上下にはさみを入れて折り込んだ、本にぴったり合うカバーをつけてくれる本屋さんだったのに。立ち読みにも大らかだったのに。ほんとに残念。

小さいころ、本屋さんという職業に憧れていた時期がありました。店員さんは何でもよく知っているスーパーマンみたいな存在。その延長で図書館司書に憧れて、1年だけ授業をとっていたこともありましたっけ。就職口がほとんどないというので、途中であきらめてしまいましたが。

書店街として有名な千代田区の神保町界隈には、小さな本屋・古本屋がたくさん集まっています。
以前、すずらん通りに冨山房書店というのがあって、小さいながらも特徴のある品揃えをしていました。また店員さんがすばらしかった。
「こういう本を探してるんですけど、タイトルがわからないんです」
曖昧な情報を頼りに店員さんに尋ねると、
「それでしたら、こちらにあります」
とすぐに案内してくれる。しかも書棚の本の分類が上手なので、似た系統の別の本までついでに買いたくなってしまうのです。
でも何年か前に、この本屋さんもなくなってしまいました。

個人的には紀伊国屋みたいなどーんと広い大型書店よりも、中くらいの大きさの本屋さんのほうが探すのに疲れなくて好きなんですが、そうも言っていられなくなりました。
で、これからはネット書店の利用がますます増えるわけですが、これには一種の賭けみたいなところがあって、時々大ハズレに遭遇します。
宣伝文句に惹かれて注文してみたら、行間がやたら広くて改行ばっかりの、内容スカスカの本だったとか。前に買った本が、タイトルを変えて再刊されたものだったとか。
本屋で手にとって少しでも中身を見ていたら、絶対買わなかったはず!

なくなってみてわかることだけど、やっぱりご近所の本屋さんって大事。それ以上に大切なのは、水先案内をしてくれるプロの書店員さんの存在なんですよね。
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あの「白い帯」について考えてみた。 [ひとりごと]

9月10日は「ホワイトバンド・デー」らしい。
東京タワーやら六本木ヒルズやら、全国で「ほっとけない 世界のまずしさ」キャンペーンに賛同するアクションをみんなで起こそうというもの。
http://www.hottokenai.jp/event/910.html

ルースターズさんの記事を読んで、ふだん行き当たりばったりに募金などをしている自分への反省も込めて少し考えてみました。

いまさら説明するのもなんですが、ホワイトバンド・プロジェクトとは、

3秒に1人、子どもが貧困から死んでいます。食べ物がない、水が汚い、そんなことで。この状況を変えるには、お金ではなく、あなたの声が必要です。貧困をなくそう、という声を表すホワイトバンドを身につけてください。(「ほっとけない世界のまずしさキャンペーン」公式HPより)

「ほっとけない世界のまずしさ」は、グローバルな貧困根絶キャンペーン(Global Call to Action Against Poverty -- G-CAP)の日本キャンペーンで、 世界のキャンペーンと連携を取りながら活動しています。(同公式HPより)

といった趣旨に基づく活動であり、それに賛同するという意思表示のシンボルが、いま相当な勢いで売れているらしい「ホワイトバンド」です。

この「意思表示」という部分が、一般の支援活動とは一線を画するこのプロジェクトのキモでしょうか。
というのも、貧困にあえぐアフリカ諸国には売上げが1円も渡らない、つまりホワイトバンドを買うことは「募金」ではないからです。公式HPによれば、売上げの3割が原価、4割が流通経費で、残った3割がキャンペーンの広報活動と参加NGO団体の活動経費として使われる予定……だそうです。

私自身はホワイトバンドを持っていません。活動の「理念」は理解できますけれども。
ただ、こうしたメディアを巻き込んだビッグキャンペーンは問題を単純化してしまい、複雑な問題から人々の目をそらす危険性もはらんでいるのではないかと思います。たとえば「日本が債権を放棄すればアフリカは自立できる」というような。
実際には借款と贈与の両面から、また資金や技術や人材などさまざまな形で日本は援助活動をしていて、それでも解決できないというところに貧困問題のむずかしさ、根の深さがあるのですが。

あるいは、乱暴な言い方をすれば「このバンドを買ったから、あとはどこかで誰かがうまくやってくれるはず」という、一種のおまじない効果もある。
もちろん何もしないよりは何かをしたほうがいいわけですが、こうした大きなビジネスがからんだキャンペーンの場合、買った側も売上げの最後の1円の使い道までしっかり見届ける義務と責任があるのではないでしょうか。ある運動に「主体的に参加する」というのは、そういうことだと思うのです。

たとえばユニセフに寄付をすると、一定の間隔をおいて活動報告のパンフレットと新たな寄付の呼びかけが送られてきます。3000円あれば○○人の子供に予防接種ができるとか、5000円あれば○○人の子供の学用品が買えるとか、募金額と援助内容の関係が具体的に示されていて興味を引きます。
アムネスティ・インターナショナル日本も、グッズを購入すると定期的に商品カタログとともに簡単な活動報告が送られてきます。
単発的なものとしては、自然災害が起きた時に被災地支援カンパを生協などの団体が募ることもありますし、ミュージシャンたちのライブアクトも同様です。ホワイトバンドプロジェクトでは、募金や寄付は「焼け石に水」というような表現をしていますが、こうした単発的な募金活動にはお金の流れが比較的クリアだという大きなメリットがあります(素性の知れない街角の募金活動は問題外ですが)。

いずれにせよ、自分が関わった援助活動の具体的な実績を知り、継続的に興味を持ちつづけることが大事なんだと思います。いまはホワイトバンドプロジェクトがブームに終わることなく、その興味の入り口の役割を果たしてくれることを願うのみです。


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