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カート・ヴォネガット『母なる夜』 [散読記]

今年4月に亡くなったカート・ヴォネガットの最後のエッセイ集、『国のない男』を読んでから、
ひさびさに再読したくなって本棚から引っぱり出した『母なる夜』。
代表作『スローターハウス5』は、彼が第二次大戦の捕虜として体験した《ドレスデン爆撃》を、
過去と未来を行き来するSF小説的に描いた作品でしたが、
『母なる夜』は同じテーマを視野に入れつつ、SF色のまったくない小説になっています。

    

巻末の訳者あとがきを借りると、

 「第二次大戦のさなかにナチス・ドイツの対米宣伝放送をやりながら、
 一方ではアメリカのスパイとして重大な任務を見事に遂行した男の
 波瀾に満ちた戦後」 (『母なる夜』白水社、p.291)

を描いたのがこの本。

物語は、主人公のハワード・キャンベル・ジュニアが、イェルサレムの刑務所の中で書いた
手記の形をとって進んでいきます。
ニューヨークに生まれ、11歳からドイツに移り住んで教育を受けた彼は、
やがてドイツの劇作家として成功してドイツ人女優と結婚。
まさに幸せの絶頂にあるとき、独米関係が悪化して、
アメリカのスパイ組織に組み込まれることになります。
自分でも意味不明な暗号情報を放送に乗せることで連合国に貢献しながら、
表向きはナチの有能な宣伝放送担当としてナチ幹部の信望を得て、
順調に出世していくキャンベル。
ところが、あまりにも仕事の出来がよかったために、戦争が終わるやいなや、
今度は戦争犯罪の重要な容疑者として追われる身になってしまうのです。

表面上はアメリカへの大逆罪を犯した彼を、「じつはスパイだった」とは誰も証明してくれません。
2つの祖国を失ったまま、ニューヨークの片隅に身を隠す14年間の“煉獄”の日々。
最愛の妻ヘルガと夢見た「二人の国」も、ヘルガ亡き今はどこにもありません。

何度読んでも胸が締めつけられるのは、14年目に得たささやかな友情とロマンスさえも失い、
キャンベルが舗道に立ちつくす場面です。

 わたしは動けなかった。
 罪の意識で動けなくなったのではない。わたしは罪の意識を感じないよう自分に教えていた。
 すさまじい喪失感のために動けなくなったのではない。わたしは物を欲しがるなと自分に教えていた。
 ……
 自分が愛されていないという考えのために動けなくなったのではない。わたしは愛なしで生きてゆけと自分に教えていた。
 神が自分に対して残酷であると考えて動けなくなったのではない。わたしは神にはいっさい期待するなと自分に教えていた。
 どちらかの方向へ動くという理由がわたしに完全に欠如していたという事実のために、わたしは動けなくなった。この長い無意味な死んだ年月のあいだわたしを動かしていたのは好奇心だった。
 今はそれさえも燃えつきた。  (同 pp.249-50)


ヴォネガットの小説は、人間の愚かしさや哀れさを残酷なまでに描きこむ一方で、
彼一流のユーモアが全体を包んでおり、あたたかい読後感を残します。
きっとそれは彼が、ほんとに人間ってどうしようもない生き物だよね、と肩をすくめながら、
心の奥底では人間への、人生への希望を捨ててはいないから。

 

そういえば、エッセイ集『国のない男』のカバーの折り返しには、
彼のこんな言葉が書かれていました。

 唯一わたしがやりたかったのは、人々に笑いという救いを与えることだ。
 ……
 
百年後、人類がまだ笑っていたら、わたしはきっとうれしいと思う。

 

母なる夜

母なる夜

  • 作者: カート・ヴォネガット, 池澤 夏樹
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 1984/01
  • メディア: 新書

国のない男

国のない男

  • 作者: カート・ヴォネガット
  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2007/07/25
  • メディア: 単行本

nice!(8)  コメント(14)  トラックバック(0) 

nice! 8

コメント 14

took

すごく深い作品ですね♪
最近こういった本をあまり読んでいないので、すごく新鮮です。
今度ゆっくりと読んでみたいなぁ・・・★
by took (2007-10-22 05:51) 

柴犬陸

ヴォネガットをまた読もうと思ったのは、なにか理由があって?
なんとなくそれが気になりました。
ただ、「あたたかな読後感」と聞くと、納得できる気がしました。
実は、名前を知っていてもまだ読んだことはありません。
「母なる夜」もとても深いですね。
by 柴犬陸 (2007-10-22 10:17) 

たかち

「国のない男」ってタイトルに惹かれますね~~!!
でも、著者がカタカナ名前って苦手なんだよな・・・
食わず嫌いはダメだ!!図書館で借りてみよう!
by たかち (2007-10-22 21:30) 

チヨロギ

◇tookさん◇
私も最近、小説をあまり読まなくなってしまって、
ひさしぶりに再読したらとても新鮮に感じました^^
もう何十年も前に書かれた本なんですけど・・・。
やっぱり小説っていいですよね♪
by チヨロギ (2007-10-22 23:36) 

チヨロギ

◇柴犬陸さん◇
彼が断筆宣言をしたこともあって、最近は全然読んでいなかったのですが、
最後のエッセイ集がこの夏に出たのを新聞の書評欄で知りました。
それを買って読んだら、すごく懐かしい気持ちになったのと、
もう新作が読めないんだなぁと感傷的になりまして・・・^^;
『母なる夜』は、とても好きな作品です。
何度読み返しても胸がいっぱいになります。
by チヨロギ (2007-10-22 23:37) 

チヨロギ

◇たかちさん◇
『国のない男』はユーモアたっぷりのエッセイ集なので、
そんなに恐れることはありませんよ~^^;
大河小説みたいに、人物相関図を覚える必要もありませんしw
図書館にぜひリクエストを! 『母なる夜』もよろしく(笑)
by チヨロギ (2007-10-22 23:37) 

良いですね~☆ 悲しみの淵にいても、人間を信じたい気持ちが分ります。
私も丁度、人間の弱さとか、もどかしさを感じていたので、心に沁みました。
裏切られても、悔しい気持ちでいっぱいでも、まだ何かを信じたいような。
特に、誰が悪いとか分らないだけに、どうしようも無い悲しさ、有りますね。
『母なる夜』、読んでみたくなりました。秋の夜長にぴったりではないかしら。
by (2007-10-23 00:53) 

流星☆彡

“ヴォネガットは日本で一番よく読まれている現代アメリカ作家の一人である”
…って あるのに、全然 読んだ事ない 日本人の私。。。orz こんな どうしようも
ない生き物ですが、まだ希望は あるでしょうか。イラストも描かれてるんダ♪
読めそうな気が湧いてきました!(^^ゞ
by 流星☆彡 (2007-10-23 06:20) 

チヨロギ

◇saraさん◇
『母なる夜』の主人公は、じつに淡々と過去を語っています。
自分の境遇を嘆いたり、だれかを恨んだりすることもありません。
でもそれは感情がないわけじゃなくて、あまりに悲しみが深すぎたために
たぶん、心にふたをしてしまったんですよね。
本当に悲しい物語ですが、それでも作者が人間に注ぐまなざしがあたたかく、
saraさんがおっしゃるように人間を信じたくなります^^
物思う秋に、おすすめの一冊です。
by チヨロギ (2007-10-24 01:18) 

チヨロギ

◇流星☆彡さん◇
日本人にそんなに読まれているんですか? ほんとかなぁ(笑)
80年代に村上春樹が現代アメリカ小説を紹介しはじめて、
当時その影響がすごく強かったと思うんです、私も含めて。
最近では、爆笑問題の太田が『タイタンの妖女』を絶賛したことも
影響しているかもしれません。
『国のない男』は語り口調のエッセイで、とても読みやすいです(^^♪
ただ、値段の割りに(笑)あっという間に読み終わってしまうので、
図書館で借りたほうが正解かも?(^▽^;)
by チヨロギ (2007-10-24 01:19) 

shikayu

「立ち尽くした」場面
なんかせつないですね(TOT)
そんな大役も担ってないけど
喪失感を感じたら、いったい私はどうなるのかなって・・・
ちょっと苦しくなってしまいました(;^_^A(汗)(笑)
by shikayu (2007-10-27 00:54) 

チヨロギ

◇shikayuさん◇
彼が心の底でいちばん大切にしていたもの=妻への愛さえも、
ある理由から永遠に損なわれてしまうんです。
誰が悪いわけでもなく、ひと言でいえば時代のせいなのですが。
思い出すだけで悲しくなってきます(T_T)
by チヨロギ (2007-10-27 01:26) 

チヨロギ

◇Kimballさん、nice!ありがとうございます☆
by チヨロギ (2007-11-12 01:13) 

チヨロギ

◇galapagosさん◇
はじめまして。ご訪問ありがとうございます。
by チヨロギ (2010-07-28 22:38) 

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